日中学生大討論ch開催報告

日本と中国の50年、ヒット曲からみる。

主催:日中学生大討論ch
(日中関係論壇・京論壇実行委員・第41回日中学生会議実行委員 今井美佑/山下紗季/徳永潤/勝隆一/曹可臻/上野祐香)

2022年6月18日(土)に60名ほどの学生をお招きし、イベントを開催致しました。「日本と中国の50年、ヒット曲からみる。」と題した当イベントは、日中国交正常化50周年を記念し、日中学生大討論ch主催で開催致しました。
ご講演者として元重慶総領事として嵐の北京公演等ジャニーズ事務所関連企画の海外紹介に尽力された瀬野清水氏をお招きしました。
対面とオンラインのハイブリッド式で行いました。

概要

1973年 小坂明子「あなた」
音楽に関して、中国→日本の一方通行の時代。
日本:高度経済成長期。73、79年に石油ショックが起こり “Small is Beautiful” の価値観へ。パンダブーム。
中国:1976年に文化大革命。「紅歌」を歌う。

1970年代 
中国:文革終了を受けた明るい時代。
① 谷村新司(昴。星。1981 年、アリス訪中)
② 芹洋子(四季の歌。四季歌)
③ 千昌夫(北国の春。北国之春)
④ソーラン節(拉網小調)

1980年代 蜜月期
テレビ「西遊記」のエンディング「ガンダーラ」
第一回中日友好音楽祭

まだ相手のことがよくわからず、好い所が目に付く時期。
日本:中国伝統文化への親しみあり
中国:近代化の成功例としての現代日本への興味

1990年代 蜜月期の崩壊
日本:バブル経済の崩壊
中国:経済急成長
国家主導で切り拓かれた日中交流から民間主導の交流への転換点だったともいえる。

艾敬(1969 年生、瀋陽市出身):1992 年にアルバム「我的 1997」でデビュー。
王菲(フェイ・ウォン)(1969 年生、北京出身。高校卒業後香港
へ):1993 年に発表した中島みゆき「ルージュ」のカバー曲「容易受
傷的女人」が爆発的ヒット。

2000年代
浜崎あゆみ(2002 年、北京工人体育場で、国交正常化 30 周年記念コンサート「中日携手・世紀同行」参加。谷村新司、酒井法子、Gackt らも)
GLAY(同年 、同じく工人体育場でコンサート)

2010年代
日本:東日本大震災
2011年、SMAP北京公演開催。「頑張ろう日本、ありがとう中国、アジアは1つ」をスローガン
に掲げた。中国からの被災地復興支援に対する「感謝の旅」でもあり、これをきっかけとして、日中両国の文化交流がより一層進むことを期待した。
2012年、SNH48 の 1 期生メンバー募集オーディションを開始。38,066 人が応募。→中国での AKB48 の人気ぶりがわかる。

谷村新司と中国の関係
1980年:谷村さんのアリスは改革開放初期に中国講演を行っている。日本の中国へのODAが始まり、両国の蜜月が始まろうとしていた時代。
80年代当時は、日本や香港、台湾の経済発展が勢いのあった時期。一種<憧れ>的な意味で、日本の楽曲が親しまれたのかもしれない。
2010年:「昴」が日中関係の最前線に登場してくるのが2010年。上海万博の開会式で、日本代表として谷村さんが「昴」を熱唱した。もともと谷村さんは日中の音楽交流に積極的で、2004年からは上海音楽学院の教授として、中国の音楽教育にも力を入れていた。
中国が改革開放により高度経済成長を達成し、北京オリンピックや上海万博を開催するまでに豊かになった。「達成感」とともにある「虚しさ」や「脱力感」など、複雑な思いに包まれる中国のひとびとの気持ちが、「昴」の歌詞や曲調と共鳴したのではないかとも思う。
2012年:「国交正常化40周年コンサート」中止。
2017年:「国交正常化45周年記念コンサート」で再び中国のステージに。
政治関係を超えて日中両国の国民が交流を重ね続けなければならない、という「強い信念」と谷村さんの「信念」には何か通底するものがあるようにも感じる。

2015年、「嵐のワクワク学校」(ライブビューイング)
2015年、関ジャニ∞「行ってみよう!魅力満載!東日本」(上海、ビデオメッセージ)

オンラインプラットフォームでの交流の開始
2010年、bilibili誕生。
いーあるふぁんくらぶ
極楽浄土

TikTok で流行った中国の曲
《失眠飞行》、《我的心里有个少林梦》

日中学生大討論chより

私たち学生としては、本日の会を通じて、3つのことが達成できたと考えております。
① 各年代の両国の状況と日中関係について先生方の実感を伺うことで、両国学生の、相手の国・社会に対する理解を深める。
② ヒット曲をめぐる日中文化交流の一端を垣間見る。
③ 文化交流という視点から日中関係を再発見し、その将来を展望する。

メディア掲載のご報告

2022/6/25(土)の朝日新聞デジタルにて、山根祐作さんに「日中学生大討論Ch 日本と中国の50年、ヒット曲からみる。」を記事にしていただきました。

当日会場にお越しいただき、取材していただきました!1970年代-現在の日中関係を、ヒット曲を通して振り返る内容となっています。是非ご覧になってください。

参加者の声

中国人留学生参加者の1人、お茶の水女子大学中国文学研究生のトケイエイさんが今回参加にあたってリサーチをしてきてくれたのでご紹介します。

 私今日本に暮らしていますが、日本人の友だちは三人しかいないです。そして思い出しました。小6の時いつも「贴吧」という掲示板でモーニング娘など日本のヒット曲に関することを探しました。しかし、情報は日本におくれています。そのために、私は日本のアプリで新しい情報を探しました。あの時たしかに日本人の友だちを作ったけど、LINEを使えなくなるから交流も止まりました。
 近年の体験から見れば、中国と日本の交流は少なくなっているかもしれません。最初は中日交流をまとめます。いろいろな論文やレポートも調べた上で、ヒット曲をめぐって中日交流は三つの面があります。
 まずは、文化における交流です。1972年頃、中国の歌手たちは日本の歌を翻訳してカバーします。90年代では主に香港の歌手たちは日本の曲を使って、中国語に歌詞を作ってカバーします。これは歌詞を翻訳するのではなくて、新しい再創作です。そして、2000年以降、中日の共同創作や中国出身の方が日本にデビューするや色々な活動を通して交流を展開します。
 2番目は、経済における交流です。文化の交流の上に、繋がりが強くなってヒット曲がどんどん出ています。それに応じて経済的な交流も多くなりました。日本のCDが中国で売れるようになり、そしてコンサートに参加する人もたくさんいました。
 3番目は、音楽を聞く人たちにもたらす影響が大きくなります。日本のヒット曲を契機に、「日本語を勉強し始めた」「留学や旅行へ行く」といった影響を人々に与えました。ただ、影響といっても、もともと日本文化に興味がある人たちの間でブームになったり、話題になったりするだけで、それ以外の人に影響を与えることができません。そして日本文化に興味ある人も、ヒット曲よりアニメやドラマ、映画からの影響のほうが大きいと思います。なぜかというか、105人にアンケートを行ったところ、日本のヒット曲の影響力は限られているそうです。「どのように日本のヒット曲を知ったか」という質問にたいして、105人のうち、82.86%の人(87人)はアニメやドラマ、映画などで知ったと答えました。「ご自身や周囲の状況を踏まえて、日本のヒット曲が中国に受容性はどう思うか」という質問に対して、62.86%の人(66人)は「受容性はあまり高くない」「アニメより低い」と答えました。
 『日中国交正常化50周年記念コラム』の随筆から見れば、「求同存异」という方針は今までも重要です。日本の方はよく「小異を捨てて、大同に就く」という言い方をしますが、中国と少し違いがあります。確かに、「周りの人は日本文化が大好き」という人がいますが、「ヒット曲や日本文化はまだ進める」と思う人もいます。この違いを認識したら、新しい関係を見つけるかもしれませんか。
 アンケートによると、人々はヒット曲の進出について、日本文化に興味を持つ人はいいことだと思っています。そして日本のヒット曲が中国に進出するだけでなく、中国の曲も日本に伝わるといいなと願う人も多いです。しかし、いろんな心配もあるそうです。日本の曲を中国に持ってくると、中国本土のニッチ文化、例えば方言の曲などが消える恐れがあるという指摘がありました。ヒット曲はその国の一部しか表せないから、偏ったイメージを持ってしまうかもしれませんという指摘もありました。
 ヒット曲を通じて中日交流はより進むと思います。

イベントにご参加してくださった学生の皆さま、応援してくださった教授の方々、日中学生会議OBOGの方々、共催した日中学生大討論chの方々、そして貴重なご講演をしてくださった瀬野清水氏に感謝申し上げます。

日中国交正常化 50 周年を記念するコラボイベントは、今後も開催する予定で、企画中です。また近く皆さんとお会いできる日を楽しみにしております♪

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